ワールドカップは、歴史だけでは勝てなくなった
ワールドカップサッカー、4年に1度の、世界の祭典。
サッカー人気は、日本でも、野球を退けて、今や、子供達のなりたい職業、NO.1だとか。
カタールでの開催となった、ワールドカップサッカー2022、日本は、7大会連続での出場となった。
前回、日本は、ワールドカップは、惜しくも、祈願のベスト8 入りを逃し、悔しい結果となった。
筆者は、野球時代だから、サッカー熱は、今のZ世代ほどの熱量はないが、それでも、ワールドカップとなれば、話は別。4年に1度と言うサイクルも、その1瞬にかける選手、監督の熱い想いは、計り知れない。
それを尻目に、筆者の目線は、と言うと、相も変わらず、単調で堅実に守って勝つ、夢のない、日本のサッカーに、少々、諦めムードを漂わせならがらの、テレビ観戦だったのだが。
2022年のワールドカップほど、世界の変化を感じる年はないと、それは、確信に変わっていった。
ワールドカップと言えど、もはや、歴史は、関係なくなったきた。
ワールドカップ下克上の始まりだ。
サッカーレベルは、歴史的に、太刀打ちできないと言う非常識
サッカーが強い国と言えば、ブラジル、アルゼンチンやドイツ、フランスだろうか。
これらの、サッカー先進国は、毎回、ワールドカップの上位に名を連ねる。
これには、理由があって、サッカーに対する国の文化や姿勢、取り組みなどの影響が大きい。
中でも、サッカーを始める年齢が極めて低く、その歴史が、各国との歴然とした、サッカーレベルの差になっていると言っても過言ではない。
でも、これは、サッカーに限ったことではなく、音楽や習い事、野球だってそうだが、その国の文化になっている、スポーツや文学などが、どれくらい深く根付いているかが、影響する。
ブラジルやアルゼンチン、ドイツ、フランスなどの、サッカー文化は、歴史があって、サッカーが、国としての文化になっているから、小さい頃からサッカーをするちびっ子達が、他の国より、圧倒的に低く、しかも、絶対数が多いから、レベルの高い、選手が誕生すると言う、見立てだ。
そう、あるべくしてある、理論的な、サッカーレベルの差がある。
だから、筆者は、日本のサッカーも、気にはなるけど、歴史と文化で培われた国に勝つためには、この先、何十年と言う歳月が、少なくとも、必須だと、少し、白けた目で、サッカー観戦をしているのが、実際のところだった。
いくら、テクニカルな選手が、いたとしても、世界の壁は厚い、これが、筆者の考えだった。
そういうシナリオが、頭の中には、あったのだが、2022年のカタール開催に関しては、ちょっと、驚くような結果が、初戦から、飛び交っている。
今や、サッカーレベルに歴史は関係なし
サッカー大国と言えば、アルゼンチン。
あのメッシも、アルゼンチン代表選手だ。
2022カタール開催が最後とも言われているが、かつては、マラドーナの5人抜きなど、歴史にその名を残す、名プレイヤーを、算出するサッカー大国、アルゼンチンだが、2022カタール大会では、あの、サウジアラビアに敗退した。
サウジアラビアと言えば、サッカーが強い国だと言うイメージは、サッカー素人でさえ、殆どいないだろう。
そうだ、過去を遡っても、サウジアラビアが、上位に食い込んだと言う、大会はない。
そんな、サウジアラビアが、あの、メッシのいる、サッカー大国、アルゼンチンに勝利したのだ。
正に、ワールドカップ下克上だ。
そして我が国、日本がその翌日、あの、ワールドカップ4回優勝の、ドイツに勝利した。
これは、 単なる偶然なのか。
ワールドカップサッカーは、そうは、言っても、サッカー大国のための祭典だ、と言う常識が、覆り始めた。
これは、いよいよ、サッカーも、面白くなってきた。
そうだ、これまで、伝統サッカーに、太刀打ちできなかった、各国も、大いにチャンスが、訪れ始めたのだ。
サッカーの常識が非常識に変わっていく背景
世の中が、大きく変化している。
未だに戦争は止まず、人が人に銃を向け、罵り合っている。
戦争は、非合理だと言いながら、架戦しない代わりに、武器を供与し、さあ、戦えと援護する。
戦争を否定はしても、戦争は終わる気配さえ見えない。
どちらかが、戦い尽きるまで、戦争は終わらないだろう。
この後に、待っているのは、世界各国の需要と供給のバランスが崩れ、消費者の生活が、益々、苦しくなる。
子供達には、あれはダメ、これはダメだと戒める一方で、大人達は、人の命をかけて、非生産的な小競り合いをしている。
世の中は、狂い始めている。
そもそも、戦争に至った経緯にも、何がしかの理由がある。
そう、それが、私利私欲による、理解しがたい内容であっても、何かが立ち行かなっているから、争いが起こるのだ。
コロナと言う疫病に始まり、世界の流通のバランスは、完全に狂い始め、立ち行かない負のスパイラルから、戦争が勃発し、この果てには、益々、予測不能な時代へと突入することになる。
ワールドカップとは、少しかけ離れたように思えるが、全く関係ないとも言えない。
それは、どういうことなのか。
同じ事をやっていても同じ結果が得られない時代
人の動きが止まってしまうと言うことは、お金も動かないと言うことだ。
これは、誰にでも分かることだ。
世界のどこを見ても、1時期、流通と言う流通は、ストップした。
これは、どういう事か。
そう、同じ事をしていても、同じ結果が得られないと言うこと。
実は、コロナが、蔓延する前から、そういう兆候は、あった。
そういう、世の中の悪しき兆候に、輪をかけて、コロナが世界中に蔓延した。
ダブルの負のスパイラルが、世界中を襲った。
そうでなくても、前年比100%を維持するのが、困難な時代に変化していったのだ。
スピード感を持って、変化に対応しなければ、例え、大資本であっても、立ち行かなくなると言う事だ。
政界の話だけのように見えるこの、世の中の兆候は、サッカーの世界にも、同じ事が言える。
歴史と文化に根付いたサッカー大国でさえ、同じ事をしていても、勝てる保証はなくなったと言う事だ。
スピード感を持って、競合達の動きを察知し、高いレベルの新しいサッカーをしていかなければ、ワールドカップの大舞台で、負けてしまう。
2022年、カタールのワールドカップ予選は、見事に、そういう結果を如実に物語っている。
スピードと、変化が求められる時代になったのだ。
いくら、サッカー大国と言えど、進化し続けなければ、サッカー大国であっても敗者となり、逆に、この先は、どの国にもチャンスはあると言うことだ。
では、なぜ、そんなことが、起こってしまうのか。
筆者は、サッカーに詳しい訳ではないが、世の中の動きを見ていれば分かる。
情報と戦術があれば勝機あり
今は、どこにいても、どんな情報も得られる。
サッカーだと、例えば、ブラジルのサッカーの特徴や、選手の癖など、情報の精度は、置いといても、ある程度の傾向や特徴、攻め方、守り方は、把握できる。
それを打ち砕く戦術が明確で、プレイヤーが、その動きを正確にアクションを取れば、突破口は開けるはずである。
フィジカル面についての本質的なものは、真似が出来ないかもしれないが、同等程度の能力開発はできる時代だ。
もはや、サッカーでさえ、これが、アルゼンチンの、これが、ブラジルの、これが、ドイツやフランスのサッカーだ、と言って、得意なパターンばかりに磨きをかけていても、勝てない時代になったと言うことだ。
裏を返せば、どの国にも、正確な情報に基づき、明確な戦術を組んで、フィジカルを鍛えれば、大国に勝てるチャンスは、多いにある。
こう、考えると、各国のサポーターの立場に立ってみると、サッカーは、ますます、楽しいスポーツになってくる。
ワールドカップは、ますます、待ち遠しい、祭典になる。
しかし、最も、大切なことは、どんなに時代が変化していっても、忘れてはいけない。
それは、『情熱』や『ハート』だったりする。
これは、サッカーに限ったことではなく、何をするにしても、『熱い想い』がなくては、人には伝わらない。
熱いハートこそ、新たな伝説や歴史を創る、力になり、原動力になる。
サッカーは、何より、情熱的、芸術的スポーツなのだから。