どこまで突き抜ける桑田佳祐さん
それは、1978年6月25日のこと。
サザンオールスターズが、勝手にシンドバッドでデビューをして、早、40年が経過しようとしている。
桑田佳祐さんは、お姉さんの影響で、ビートルズを知り、筆者は、兄の影響でサザンオールスターズを知った。
それ以来、追いかけ続けたサザンオールスターズが、今も尚、音楽界のトップを走り続けている。
これまでの作品は、約1,000曲に迫る、全て、桑田佳祐さんの作詞作曲によるものだ。
なぜ、こんなことができるのだろうか?
こんなにも、日本の音楽界をリードし続けているミュージシャンを、筆者は知らない 。
その、張本人は桑田佳祐さんだ、としか言いようがないが、その桑田佳祐さんとは、1周りほど年齢が違う筆者だから、それはもう、「桑田佳祐さん」と呼ぶしかない。
マスコミ各社の記事のように、「どこまで突き抜けるのか桑田佳祐」なんて呼び捨てはできないのだ。
当初、10歳だった筆者は、毎週木曜日放送のザベストテンで登場した、ジョギングパンツ姿の、サザンオールスターズというバンドを見て、ひどく衝撃を受けた。
1978年の夏だった。
もう一度、勝手にシンドバットから、全曲をベランダで聴いてみた
筆者は、サザンと桑田佳祐さんのファンなので、当然ながら、全曲、全アルバムを網羅している。
しかし、この留まることを知らない桑田佳祐さんの躍進の背景に何があるのか、もう一度、サザンでは熱い胸騒ぎから、葡萄まで、桑田佳祐さんのソロアルバムではKEISUKE KUWATAからがらくたまでの全曲を、ベランダで、ボンボンベットに寝そべりながら聞いてみた。
なぜ、ベランダで聞いてみることにしたか、特に意味はない。
ベランダが、好きだからだ。
ただ、ベランダで音楽を聴くと、とても心地が良い。
そして、1,000曲近くの楽曲をじっくりと聴いてみると、改めて、桑田佳祐さんのスゴさを思い知らされた。
「こりゃ、いかん。」
「こりゃ、誰も真似できん。」
推測の域を過ぎないが、桑田佳祐さんの音楽好きであるが故の、情熱、好奇心、探究心、あらゆる音楽に向き合う幅が、とてつもなく果てしなく、先が見えないのだ。
サザンデビュー時代に、既に、かなりの音楽的ストックは、桑田佳祐さんの中には、備蓄されていた。
桑田佳祐さんは、「神」的存在!?
最近の若い人たちの中で、よく使われている言葉のようだが、 「神だ、神だ、神的存在だ」、とかいうフレーズをしばしば耳にする。
これは、テレビ朝日系のタモリさんがパーソナリティを務める、ミュージックステーションで、「想い出に残る名曲」特集とかの企画で、サザンオールスターズや桑田佳祐さんの楽曲が出てくると、若い人たちは、桑田佳祐さんのことは、良く知らないんだけど、「この人、神だ、神だ、神的存在」などと、興奮気味の若者の姿を良く見かける。
「神」?
それは、例えとして、「あり」かも知れない。
どうも、若者たちの中で、桑田佳祐さんは、もとてつもなくすごい人だ、というイメージが根強いようだ。
還暦を迎えた桑田佳祐さんだか、こういう今時の若い人たちにも、桑田佳祐さんが浸透しているのは、何故なんだろう。
神様、仏様という言葉があるが、仏様は実際に存在するしていた、最澄や空海などがいるが、それとは種が異なる。
しかし、神様は、人が作ったものだから、神的存在という、位置付けは、表現としては、「あり」かも知れない。
そういう意味では、まさに、もしかしたら、神的存在ということが言えるかもしれない。
桑田佳祐さんのどこが「神」的なのか
桑田佳祐さんを、若い人たちは、神的な存在存在だという位置付けで見ている人たちが、少なくない。
最近の若者らしいが、筆者もそれに近いイメージを持っている。
でも、桑田佳祐さんのどこが、神的なのかというところを、ちょっと少し深く掘ってみたい。
桑田佳祐さんは、1978年にデビューしたサザンオールスターズのボーカリストであり、リーダーであり、作詞作曲家だ。
それ以来、40年以上経過しても、いまだに古い名曲を懐かんで歌う歌い手とは違い、 毎年、毎年、新たな作品を今でも、作り続けている「超」が付く、プロデューサー的存在でもある。
これまでの楽曲は、全て、桑田佳祐さんの作詞作曲で構成されている。
これが、まず、スゴい。
少し前の話になるが、歴代売り上げランキングで、「嵐」や「米津玄師」、そして、「サザンオールスターズ」、「桑田佳祐」らが、上位にランクイン・・・というニュースを耳にした。
「嵐」は、ジャニーズ事務所所属のある意味、売れることが約束されたグループ、1人1人は、みな好青年だが。
毎度、毎度、テレビ面するのも大変で、心労も多いことだろう。
また、米津玄師については、僅かな期間で、ランクインするとは、さすが、今時のYouTuberミュージシャン!?
まだ、若さが残るが、壁を越えられるか、これからどうなるかだ。
しかし、サザンオールスターズ、そして、桑田佳祐さんについては、別格扱いにしないといけない。
アミューズは、いい事務所だが、ジャニーズのような毛色ではない。
桑田佳祐さんそのものの、「評価」と言っていい。
作品は、全て、桑田佳祐さんのもの。
こんな、アーティストが、未だかつて、日本にいただろうか?
「いや、いない。」
前代未聞なのだ。
桑田佳祐さんが、日本で初めて成し得てきた功績だ。
しかも、現在進行形のing。
にわかに信じがたい、超越した、超プロデューサーと言える。
それを、現実にしている背景には、筆者なりの分析だが、デビュー当初から既に、様々なジャンルの音楽を熟知していて、音楽を追求し続ける、プロフェッショナルな姿勢と人格。
これに尽きるのかも知れない。
桑田佳祐さんが、パーソナリティを務めていたオールナイトニッポンや、東京 FMのやさしい夜遊びもそうだし、テレビ番組や雑誌などで桑田佳祐さんが、コメントしている内容など、とにかく、ありとあらゆる桑田佳祐さんから発信されたモノは、筆者は、全て消化してきたが、総合すると・・・そうなる。
一発、売れたら、印税ガッポリで、勇退するアーティスト、一定の年齢に到達したら、過去のヒットナンバーを歌っては、それを懐かしむアーティスト、洋楽カバーばかりで、上位ランクインする産業アーティスト、いろんな有名アーティストが存在するが、その、どれでもないのが、桑田佳祐さんだ。
アルバム、NUDE MANのPLASTIC SUPER STARで、桑田佳祐さんは、そんなスーパースターとは、「ちゃいまんねん」と唄っている。
また、その前年、1982年に発売された「綺麗」には、MICOというタイトルで、このほど、永眠された、弘田三枝子さんを慕った唄がある。(謹んでご冥福をお祈りします)
「振り渋るよな歌い方で、かなり、振る舞いも派手な人♪」というフレーズがあるが、桑田佳祐さんの唄い方には、これに近いものがある。
覚悟が、そんじょそこらと違っている。
知っていて、具現化できる桑田佳祐さんは本物のスーパーマン
桑田佳祐さんが、デビューした当初の1978年といえば、1960年代~1980年代にかけては、とにかく洋楽ブームであったということは間違いのないこと。
特に、洋楽が、世界の中でもトップレベルにあるというような位置づけで、日本人が日本語でロックを歌ってもなんだか白けてしまうという時代だった。
桑田佳祐さんご自身も、おそらく、洋楽のヒットナンバーは、当然ながら、全てチェック済みで、そんな風合いの楽曲を、日本人が、日本語で、いかにかっこよく歌うかということにとにかく執着していた時期があったような気がする。
そもそも、桑田佳祐さんの独特な唄い方と歌詞とのミックスダブルスは、それを、具現化したものだと筆者は、思っている。
筆者も、当初は、エリック・クラプトンが、ツェッペリンが、ブルース・スプリングスティーンが、ビリー・ジョエルが、ホール&オーツがカッコよかった。
色んな音楽を知っているけど、特に、ジャズや R & Bやソウルと言われるジャンルの音楽は、知っていても、「歌えない」というシンガーが多い。
歌えたとしても、カッコよくないのだ。
が、桑田佳祐さんの場合は、それぞれのジャンルの歌を、さらりと唄いこなしていて、カッコいい。
さらりと唄いこなしているが、なかなか歌えるものではない。
これは、自分で歌ってみれば、すぐに分かる。
サザンオールスターズデビューの当初から桑田佳祐さんは、あらゆるジャンルの楽曲を作詞作曲し、そして、唄いこなしていたということが、ベランダで、もう1度、全ての曲を、寝そべりながら、静かに音楽を聴いていると、にわかに分かってきた。
特に、ジャズやR & B、ソウルなどのジャンルの歌は、そうそう、特色をかもし出せるジャンルではない。
1980年、サザンオールスターズは、 アルバム、タイニーバブルスを発売、翌1981年には、アルバム、ステレオ太陽族を発売している。
いずれも、ジャジーな楽曲が多い。
また、1989年には、サザンオールスターズは、JAZZMANをシングルリリース、同年、東京シャッフルをシングルリリース。
と、この1980年代、桑田佳祐さんは、軒並み、音楽の原点とも言える、ジャズをベースにした楽曲を執拗にリリースしている。
その当初の、日本の音楽会は、ニューミュージックやPOPS全盛期。
勝手にシンドバット、いとしのエリーで、大ブレイクしたサザンオールスターズは、大きく舵を切ったが、当初は、メガヒットには至らなかった。
しかし、これは、今になって思うと、桑田佳祐さんが、時代より、かなり先回りしてしまっただけの話。
「人が、唄を聴いて、心に響くその根底には、ジャズやR&Bやソウルやブルース、そして、演歌がある」ということを悟っていたのだ。
高度なジャンルの楽曲に、果敢に挑戦していった、プロフェッショナル魂を感じるアルバム郡だ。
今、当初のアルバムを聴くと、改めて、その完成度の高さを痛感する。
サザンオールスターズは、ジャズもこなせることが、音楽界の中に浸透し、1989年、ジャスシンガーの金子晴美さんは、SPECIAL MENUというタイトルで、全曲、桑田佳祐さん作詞作曲のジャズカバーアルバムを発売している。
そして、1990年、桑田佳祐さんの音楽家としての才能が、世界的に開花したとも言える、いとしのエリーが、あの、世界の頂点に君臨する神、レイ・チャールズによってカバーされたのである。
ステレオ太陽族では、ジャズピアニストの八木正生さんに、アレンジャーとして参画してもらっている。
プロ意識の高さが、ここでも伺える。
癖がスゴい桑田佳祐さん
これは、桑田佳祐さんに限らずだが、日本の名だたる音楽家らは、特徴的な声質の音楽家が多い。
桑田佳祐さんも、当然ながらその1人で、勝手にシンドバッドが、大ヒットした背景には、べらぼうなスピードで刻まれる、早口言葉と、日本語英語、フレーズ、それと、桑田佳祐さんのダミ声。
そして、忘れてはいけないのは、この桑田佳祐さんの声量のすごさ。
とにかく声量が、他の人と比べ物にならないぐらいパワーがある。
一見、声量は、音楽機材を使えば、強弱できそうだが、実は、やっぱり、本当に声量のある人の唄はしっかりと、レコード時代から聞き手に伝わってきている。
これは、恵まれていたと言うべきか、努力をされたのかは分からないが、とにかくシンガーとしてまず、声量があって、特徴があるというのは何よりも大切なこと。
そこに、桑田佳祐さんの、音楽に対する絶え間ない探究心が加わり、世界中のありとあらゆる音楽を誰よりも広く深く知りつくし、桑田佳祐さんの プロデュースする楽曲の、肥やしになっているということは言うまでもない。
桑田佳祐さんの英語の作詞作曲への挑戦
1960年代から1980年代は、世界の中の音楽の中心はアメリカで、国内でも、ベストヒットUSAなど、小林克也さんがナレーターを務める有名な洋楽番組が台頭し始めた。
大ヒットした、ベストヒットUSA。
小林克也さんのおかげだ。
小林克也さんの、あの、流暢な英語は、全て独学によるものだそうだ。
「わしらは、みんな、広島じゃけん♪」
桑田佳祐さんもだが、小林克也さんの地元愛も半端ない。
小林克也さんほど、広島県(厳密には福山市)出身で、ハナ、タカダカにできる人は、いない。
筆者も、広島出身でよかったと思う。
そして、しばらく、洋楽ブームは、留まるとこれを知らなかった。
そんな中、桑田佳祐さんは、また、新たな挑戦に挑む。
桑田佳祐さん率いる、KTWATA BANDの誕生だ。
全て、英語の作詞作曲による、オリジナルアルバム、NIPPON NO ROCK BANDを発売。
洋楽に、真っ向勝負した。
完成度の高いアルバムとなり、KTWATA BANDのライブでは、ボブ・ディランの風に吹かれてなどが、ロックテイストにアレンジされ、世間を賑わせた。
あと、桑田佳祐さんの作詞作曲で、忘れては行けないのが、日本人が好む「韻」についてである。
万葉集、古今和歌集、新・古今和歌集など、古来から、日本人は、「韻」を踏むことに、心を牽かれる民族である。
それを、音楽に取り入れたのも、桑田佳祐さんが、第一人者である。
あらゆる角度で、新しいモノづくりに挑戦する姿勢は、なかなか、継続できるモノではない。
特に、大物ミュージシャンも、いろんな種類があり、いろんな人格がある。
一昔前、海外のシンガーにドラッグは、付き物だったが、これは、多忙なあまりの孤独感や、どうしようもない現実が、それを誘引したもので、日本のちょっと売れたくらいのミュージシャンがやっては、ダメなのである。
滑稽そのもので、哀れである。
それを、代表するのは、筆者は、ビリー・ホリデーだと思っている。
ビリー・ホリデーは、黒人のシンガー、当初のアメリカは、黒人差別が色濃く残っていて、その、どうしようもない現実を優いて、ドラッグに走ってしまったのだ。
黒人として、幸いにも売れ始めたビリー・ホリデーだったが、依然、黒人差別がはびこり、もがき苦しんだ苦悩のシンガーなのである。
どうしようもないのだ。
「奇妙な果実」は、ビリー・ホリデーの名曲だが、「果実」とは、「黒人」のことで、目が覚めたら、木に黒人が果実のように吊るされていた。
という、果実に例えた、黒人差別の哀れみの唄である。
桑田佳祐さんは、1985年、初のダブルアルバム、KAMAKURAの中で、「星空のビリー・ホリデー」という楽曲をリリースしている。
音楽と、それにまつわる歴史まで、知り尽くしている。
話しは、ちょっとズレたが、もう1つ、みなさんに知っておいて欲しいこと。
それは、桑田佳祐さんは、約1.000曲近くのこれまで作詞作曲の中で、その大半が、作詞作曲を作る時は、必ずメロディーから入るというのが、かなり稀有なことなのだ。
一般的な、ミュージシャンとは真反対の行動であり、メロディーから曲を作るということが、どれほど大変だということは、容易に分かるだろう。
詞の内容が嬉しい内容、悲しい内容、寂しい内容、笑える内容であれば、その内容に沿ったメロディーを付けるのは、比較的容易な作業である。
しかし、その逆は、ハードルが高い。
メロディから、楽曲を製作するというのは、異質な存在である。
この記事は、桑田NOTEのまだ序章
1991年には、 日清パワーステーションで、桑田佳祐さんは、アコースティックレボリューションという、アンプラグドライブを行っている。
当初、アコースティック、いわゆる、アコギ(Unplugged)が流行っていた、当初のこと。
プラグを使わない、いわゆる生音ということ。
この、アコースティックレボリューションでは、数多くの海外の有名ミュージシャンの曲を、カバーしている。
当然ながら、桑田さんの好きな、ビートルズやボブディラン、レオンラッセル、エリッククラプトン、ルイアームストロング、デビットボーイ、CCRなどの有名な楽曲をいともたやすく、唄い歌い上げている。
顎が外れるぐらいの衝撃を覚えたが、あたかも、自分の歌かのように、風に流れるように、唄いあげている。
これも、桑田さんが、世界の音楽の中心が英語であるということを、意識したライブだったのかも知れない。
そして、圧巻だったのは、その、アコースティックレボリューションのラストの唄が、1931年生まれのスキータデイビスのエンド・オブ・ザ・ワールドだったこと。
スキータ・デイビスとは、アメリカ出身、カントリーロックミュージシャンだが、1962年にブレイクしたエンド・オブ・ザ・ワールドは、当初の桑田佳祐さんの年齢で言うと、わずか8歳の時に、ブレイクした外国の曲。
幼少期から、洋楽を耳にしていて、それを記憶していたということが、容易に推測できる。
成長の過程で、その楽曲にたどり着いたのかも知れないが、それにしても、音楽を深く追求せずにして、この楽曲にたどり着くことは、まず、ない。
桑田佳祐さんの、音楽に対する執念と言うか、思い入れは並々ならぬものがあるということが、この一例を挙げるだけでも、明らかに「格」が違うという気がする。
そういった、バックボーンを自分自身で作り上げ、軸をぶらさず、 日本が、ニューミュージックだ、POPSだという時代に、ジャズの要素の強いアルバムリリースする。
非凡さが、漂って仕方がない。
音楽に関してはかなり深く広く、自分の知識として持ち合わせていたし、それを唄いこなせる才能が桑田佳祐さんには幸いにもあったのか?
いや、この記事に関しては、筆者も、40年間の思いを込めている。
しかし、記事を書けば書くほど、桑田佳祐さんの、今があるのは、到底、偶然の産物ではなく、人並みならぬ、努力や挑戦の結果であるように思えてならない。
時々、「あー、疲れたとか、しんどいなー」なんて思ったり、自分は、努力しているか?
とか、安易に思ったりした自分が恥ずかしくてたまらなくなってきた。
桑田佳祐さんの、音楽に対する情熱は、計り知れない。
桑田佳祐さんは、2歩、3歩、4歩、5歩も先を進んでいたということが、この記事の終盤にきて、いよいよ明確になってきた。
だから、40年以上も、いや、まだまだ、桑田佳祐さんの「神」的な、行動から目をはなせなくなった。
横浜アリーナの無観客ライブも、WOWOWでの放送が決定した。
WOWOWの開業当初から、常にサザンオールスターズのライブは、WOWOWだった。
桑田佳祐さんとの繋がりは、今も代わっていない。
筆者は、お金が無いから、WOWOWに入っては、解約、入っては解約を繰り返してきたことを懐かしく思う。
サザンオールスターズのライブがある度、WOWOWに加入していた。
当初、WOWOWって何?
という時代から、共に、叩き上げで、這い上がってきた同士である。
1993年から、桑田佳祐さんが発起人として始まったチャリティライブAAA(アクト・アゲインスト・エイズ)も、実に27年間続いた。
語り尽くせばキリがないのだが、しかし、桑田佳祐さんの躍進は、まだまだ序章。
桑田佳祐さんは、これからも、留まるところを知らず、もう誰にも止められない存在になる。
その、「火」が、消えることは、未来永劫なさそうだ。
筆者は、思う。
もう、名前は決めてある。
どこに、店を出するかは、まだ、分からんが、店名は、「茅ヶ崎coffee」に決めてある。
1人息子の名前は、「佳祐」。
そして、後で分かったことだが、桑田佳祐さんのお姉さんが、嫁がれた家の、苗字が筆者と同じだった。
「偶然だろう」。
いつの日か、夢だった喫茶店を開業し、毎日、サザンや桑田佳祐さんの唄を、その日に合わせて、曲を選び、そして、サザンや桑田佳祐さんが、好きなお客様に、うまくないかも知れない、コーヒーを入れて差し上げる。
そして、いつの日か、そのドアを桑田佳祐さんが、開けてくださることを。
夢見よう。
夢を見るのは自由だから。
かしこ。
(桑田さん、画像、たくさん使ってごめんなさい)