世の中を俯瞰して見れば幸せを感じる瞬間

自分だけが辛い訳じゃなかった

とかく、自分の日常生活に於いて、仕事やプライベート、身体の調子など、何か、うまくいかない事は、よくある事。

これは、特定の人だけに起こっている事かと言うと、恐らく、大半の人が、経験していると思われる。

何かがうまくいかない、悪い癖が止まらない、体調が悪いなど、よくよく考えて見れば、それは、 生きているんだから、当たり前に起こると言う事だ。

そう、生きている限り、自分の想いのままに、世の中が、動いていくなんて事は、まず、あり得ない。

どちらかと言うと、うまくいかない事の方が、多いのかも知れない。

それぞれ、みなさんのこれまでの人生を振り返ってみると、どうだろう。

筆者の場合は、こうだ。

幼少期、はっきりとは、覚えてはないが、特に、現在に至るまで痛恨の極みだと記憶に残っているものはない。

小学生時代、中学生時代、ここも、記憶に残るほどの、辛い想いはない。

高校時代、母親が43歳の若さで、脳卒中で倒れ、半身付随と言語障害を抱えた。

この日以来、母親が作ってくれた、食事は食べる事がなくなった。

この時ばかりは、さすがに不幸なのだろうと感じたが、本当に辛かったのは、母親だ。

NHKの番組で、「人生、最大のピンチは?」と言う、街録インタビューをやっている。

通りすがりの人に、あなたにとって、「人生、最大のピンチは?」と、尋ねると、大半の人が、何がしかの辛い想いを経験し語っている。

病気や災害などが多いように感じるが、結構、重い経験をしている内容が多い。

筆者で言えば、家族が致命的な病気になり、家族のバランスが、完全に崩れた。

そして、NHKの街録インタビューの通り、みなさんも、何がしかの、ピンチを経験している。

たった、これだけの事例を見ても、誰しもが、想うがままの、人生を送っている訳ではない事が、分かるだろう。

そう、人生は、山あり谷ありが、割と普通に起こっているのだ。

その度、試行錯誤して、もがきながら、乗り越えてきた。

これは、若い時代には、あまり、感じない、経験しない事かも知れない。

そもそも、若い時代は、経験則が少ないから、世の中の辛い事、悲しい事、耐え難い事の、ボリュームがいかほどのものなのか、見えていないと言うのもあるだろう。

しかし、1年1年、歳月を重ねる度、人は、さまざまな経験をしていく。

そして、ああ言うリスクもある、こういう危険もあると、世の中が見えてくる。

年齢を重ねるにつれ、人は、時に、どんだけ、ツイてないと想う事もあるだろう。

連続的に、不快な事が重なると、確かに、そういう想いになるのも、分からないではない。

だが、こういう、しんどい時には、まずは、今の視野を少し広げて、世間全体を見渡してみよう。

今日この瞬間も、世界では、人が人の命を奪い合っている。

自分達の生きる場所を守る為?

大きな災害も起きていて、多くの人の命が、理不尽に奪われている。

日本でも、東日本大震災では、多くの命が奪われ、未だ、復興の目処が立たない人がたくさんいる。

例えば、少しの間、テレビのニュースを見ているだけでも、この程度の物凄い事が、起こっているのだ。

だったら、多少の苦痛や不幸に感じる事があるとしても、自分の足で不自由なく、歩けていれば、その方がある意味、奇跡で、ありがたいとは、想わないだろうか。

例えが、極端だよ!

そういう人も、いるだろう。

しかし、これは、誇張ではなく、事実、この瞬間にも起こっている事実だ。

そもそも人は、 欲深い生き物だ

人は、「欲深い」生き物だ。

だから、あれもしたい、これもしたい、気持ちよくなりたい、快感を感じたい、あれが欲しい、これが欲しい、色々、想いは、あるだろう。

これは、人である以上、煩悩に苛まれながら、生きていくのだから、大いに欲望、野望は、持っていい。

そして、死ぬまで、自分との煩悩との闘いは続く。

だけど、悟りを開けるほど、人間は強くない。

だから、お寺の心頭滅却や、断食、滝行などのカリキュラムに参加して、自分の煩悩を洗い流そうとする。

しかし、それくらいでは、人は変われないはずだし、変わる必要もないだろう。

そもそも、人は、欲がある動物だし、これだけ情報過多な時代になると、欲望がない方が、不思議だ。

求不得苦(ぐふとくく)もいいじゃないか。

失敗するからこそ、次は、うまくいくように工夫していくのが、人間だ。

欲望をパワーに変えて、人生に張り合いを持て、欲をうまく操って生活できる、そうなれば、最高だ。

しかし、欲望のままに生きていくと、破滅してしまう可能性もある。

その、さじ加減が大切だが、もし、欲望の波に飲み込まれた時も、どん底に落とされた時も、それは、また、1からやり直せばいい。

そうやって、人は、いろんな経験をして、背負い、深みが出てくる。

その方が、よっぽど人間らしいと言うものだ。

ただ、多少のがたつきはあっても、五体満足で、歩いてゆけるなら、それだけでも、ありがたい事だと、感謝しても、バチは当たらないだろう。

まずは、自分の足で、歩んでいける事に、感謝、それって、当たり前、なんて想っている人がいたら、それは、 大きな間違いで、ただ、目標を持って生きる事さえ、 叶わない世の中になっている事を忘れないで。

そこから先、どこまで、想いを果たすかは、 あなた次第だ。

叶えたい想いの数が多い程、山は険しいと想っておいた方がいいだろう。

その、辛い対価として、恐らく求めていた物が、手の内になるはずだ。

しかし、どこまで行っても、やはり、健康であることは、何にもまして、ありがたい事である。

これは、もっと辛い人がいるからまだ、ましだ、と、言う考え方ではない。

基準をどこに置くかをブラしてはいけないと言う事だ。

少なくとも、自分の足で歩いていけるうちは、可能性は無限大だ。

普通に仕事や学校に出かけ、ご飯を食べて、そして、家に帰って寝ると言うことさえ、叶わない世の中になっていることを、忘れてはいけない。

この、今の、異常な世の中の情勢に、麻痺して、自分が叶えようとしている事が叶わないくらいで、落ち込む事はないから、そんな時は、 「ふっ」と、深呼吸してみよう。

深呼吸して、空を見上げて、明日から、また、新しい1歩を歩み始めればいい。

人の命を保証された人は、世の中に、 1人もいない。

しかし、毎日が、多少の無理があっても、暮らしていけていることこそ、当たり前のように錯覚しがちだが、感謝に値すると筆者は、この頃、感じている。

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