サイトアイコン MONDE

永遠の命なんてない、1度は考えておきたいその日のこと

命は有限、みんなに必ず訪れる日が来ると言う免れのない事実

人の命は、有限で、等しくみんなに必ずやってくる。

なかなか、真実味を帯びる瞬間は少ないものだ。

人は、臆病だから、敢えて、その心境に入って行こうとはしないし、健康なら、わざわざ、最期の日のことなど、まだ、先で、考えればいいと思いがちである。

何かの病気で、入院や通院をすることは、年齢問わず、みなさんも1度や2度は、あるだろう。

筆者は、本サイトでも、ドキュメンタリー記事として、アップしているが、心房細動持ちで、カテーテルアブレーション治療を受けたことがある。

23歳で初めて発祥した時は、反射的に、「ヤバい、死ぬかも」と思った。

恐らく、この年齢で、心房細動を発症するのは、極めて少ないだろう。

何かに付けて、我が家は、殊更、健康に関しては、無常迅速に訪れる傾向がある。

筆者の心房細動然り、母親の脳卒中は、実に43歳の時だから、人周りほど、早い感覚だ。

筆者が、初めて、心房細動を発症した時は、23歳、社会人1年目、働き始めて、僅か1ヶ月、「これが、心臓発作と言うヤツなのか」と、瞬間的に思った。

その時は、 友達とスポーツをしていて、郊外の学校のグランドで、その、悲劇は、起こったのたが。

「ヤバいぞ、脈がバラバラだ。これは、経験したことないぞ、乱れが戻らないと、死ぬかも・・・」

友達に、心臓マッサージを頼み、見様見真似で、友達も、マッサージをしてくれる。

たが、一向に事態は、好転しない。

救急車を呼んでくれた、しかし、近くに病院などなく、少なくとも、30分〜40分は、かかる。

「マジか、マジなのか、だんだんと、意識が薄れていく、いや、待てよ、確かに意識は遠のいているが、息もできず苦しいのか、いや、息はできる。」

こんな時に、冷静な判断をするのは、なかなか、難しいもの。

心不全や心筋梗塞なら息も苦しい筈だし、胸も苦しいはずだ。

ただ、心不全も心筋梗塞も、心房細動も、未経験故、何がどんな症状なのか、分かるはずもない。

ただ、非日常的な発作が起こっていることだけは違いない。

こういう時に、平常心でいるのは、難しい、バニックに陥る。

日頃から、いざと言う時の、覚悟がない事が、よく分かった。

その時は、まだ、23歳だったから、まあ、贔屓目に見ても許せる範囲かもだが、54歳、そろそろ、何があっても不思議じゃない年齢だ。

心房細動も、このところ、数回に渡り再発祥してきた。

発祥感覚もまた、短くなってきて、頓服も効かなくなってきた。

町医者に症状を伝えると、2回目のアブレーションをした方が、いいだろうと言うことになり、そして、今般、再び、カテーテルアブレーション治療を受ける事になった。

2015年に、1度目のカテーテルアブレーションを浮かたから、7年ぶりのカテーテルアブレーションだ。

2回目のカテーテルアブレーションともなると、年齢もそこそこになっている。

アブレーションの恐怖は、ほぼない。

心房細動のカテーテルアブレーション治療は、まな板の上の鯉のようなもので、まな板に横たわったら、もう、身動きすらできず、しばらくすると、意識が薄れ始め、意識が戻ってきた頃には、終わっている。

これが、筆者のカテーテルアブレーションに関する、治療の感想だ。

主治医に、身を委ねる他に、足掻きようがない。

しかし、今回は、アブレーションと言う、経験したことのある治療だったが、深刻な状態な事も、十分、考えられる年齢だ。

カテーテルアブレーションだって、100%安全保証された治療ではない。

もしも、もしかしたら、ダメかも知れないオペや、延命のためのオペだったら、どう、向き合うかを、少し、考えてみようと思ったのだ。

実は、病室に辿り着くまでに、途中、腫瘍治療室と言う、看板に出くわした。

名称が、ストレートだが、がん患者の治療をする治療室だろう

内科や外科のように、受付がある。

受け付けの前では、患者さんが、順番を待っている。

しかし、心なしか、何となく、空気が重たい気がする空間だった。

何かあった時の事も考える習慣の重要性

まだ、大丈夫だろう。

その時に考えよう、もう少し、時間はあるだろう。

それでもいい、しかしだ。

筆者は、最近、つくづくそう想う。

誰しも、そう、想っていたら、突然なのだ。

有名人などは、やはり、マスコミとの関連性が高いから、直ぐにニュースになるが、芸能人とその他の人、比率ってどのくらいだろう。

恐らく、1:9以上に低いはずだ。

それなのに、だ。

急に、亡くなる有名人の何と多いことか、有名人だから、余計、気になるのか、日常に置き換えると、もっとたくさん、予期せぬ、事態が、発生しているはずだ。

やはり、一応、その時の事って、1度くらいは、考えておいた方がいいだろう。

理由は、2つある。

1つは、周りに迷惑をかけないためだ。

取り分け、1人身の場合は、何かあった時、何かを残しておかなければ、周りは、何にも、手をつけれない。

手がかりとなるものが、何も無い場合、手の施しようがないのである。

スマホだって、生体認証や、顔認証、虹彩認証、ロックコード、パターン、PINなど、手がかりになるであろう、最大の武器が、ロックで、封鎖されている。

だから、どうする事もできないのだ。

何か、手がかりになるような事を残しておかないと、周りに迷惑をかけることになるから、責任として、特に1人の場合は、最低限の手がかりを残しておかなければ、いけない。

その、もう1つの理由だが、死を感じるこ1つは、いろんな意味で、自分が変わる、そう、変化するのだ、行動や言動が。

筆者も、1人身だし、今回、2度目の心房細動カテーテルアブレーションを受けるにあたり、もしも、100万が一にも、何かが起こらないとも言い切れない、と感じ、一応、息子に手紙を残した。

そこには、1番は、息子への想いを綴っただが、その他、連絡を取ってほしい人、保険会社の連絡先、ローンがある場合は、その返済先、スマホのロック解除方法、銀行口座のパスワードなど、教えといてやらないと、今は、スマホ会社に泣いてすがっても、教えてくれないし、分からないのだから、残しておいてやらないと、解析不能になる。

そして、こうして、所謂、終活のような真似事をしていると、つくづく、嗚呼、何処まで、生きていくのか、何歳まで、生きれるのか、そんな事を必ず考えてしまうのだ。

1人身だと、やはり、そこは、切ない。

夫婦2人なら、お互い、手を取り合ってと言う、1番安心できる助け合いができる。

しかし、最近、夫源病やらと言うのも多いらしく、熟年離婚率も高まっているらしい。

夫がそばにいるだけで、体調が悪くなると言う妻、どうしようもない、女性の病だ。

夫の存在が原因で、体調が悪くなるんだそうだ。

別に、相手が嫌がったり、嫌われるようなことをする訳ではない。

むしろ、家族に対し、尽くし、生涯を捧げてきた。

ちょっとさした、昭和的行動が、ヤバいらしい。

「仕事は、家族のために忠誠を尽くす、しかし、家では、あまり、家事をしない、子供の面倒を見ない」、そう言う、お父さんが、いざ、会社を引退すると、「おい、飯、おい、新聞、おい、洗濯」
と、何も家事ができない。

家庭内では、指示ばかりして、自分は、動かない、こういうのが、いつの間にか、妻を、夫源病へと、追いやってしまうのだそう。

人生長くなると、いい事もあるが、ついでに、付きまとう事も出てくる。

だから、一定の年齢になると、どういうライフスタイルなら、自分も相手も、平安に暮らせるのか、真剣に考えておかないと、ヤバい。

その日は、その日しかない、代替えはないのだ

今日1日とは、今日しかない、似たような日があるとしても、二度と同じ日は、無い。

だから、その日、その日を、無駄なく精一杯生き抜きたい。

健康だと、とかく、これが、当たり前で、惰性で生活してしまう事が多いのだ。

しかし、体調を崩し、入院なんてするてな事になると、気持ちの持ちようが変わってくる。

とくに、重篤な場合は、尚のこと。

しかし、そういう事に境遇する人と、そんな心配は、微塵もない人との、人生の向き合い方は、明らかに違う。

病気の内容によって、病院から見える外の青空が、眩しく神々しくもあり、深刻な状況の時には、「何で、そんなに、うんざりするほど、能天気に輝いているんだ、もう、愉しい事なんかないんだ、こんなに悲しい状況なのに、神様、仏様は、無情だなっ」と、思ってしまう。

空1つとっても、輝かしい空だったり、皮肉で能天気な空にもなる。

だから、自分が後者になった時に、どう生きるのか、ビジョンを決めておく事は、スゴく重要。

自分が、五体満足で、いつまでも、居られると言う保証は、全くないし、これまでが、ラッキーだったのだ。

むしろ、ある、一定年齢、40代、50代に到達したら、それだけで、感謝だし、これから先、思い通りに行かなかった時の事も、想定しておこう。

特に、入院などした時は、そういう気持ちになりやすいから、そういう時こそ、少し真剣に、もし、今回が長期入院になるようなら、毎日を、どのように暮らそうかとか、退院できたら、次は、生活スタイルを変えようとか、考えてみるべきだ。

例えば、腫瘍治療室の患者になってしまったら、3日入院とは、全く、気の持ちようが違うはずだ。

そうなってから、考えるとなかなか、建設的なマインドには、ならないんだろうなとか。

だから、元気なうちに、何か重い病気と闘わなければならなくなったら、「こういうプランでやれば、辛いことも耐えられるとか、未来を本当にやりたいことに注ぐ準備をすれば、勇気が凛々と湧いてくるはず」だ。辛くても、がんばれる何かを見つけておくこと。

五体満足は当たり前のようだが、世の中を振り返ってみると、どこか、調子が悪いと言う人の何と多いことか。

家族がいるから幸せで、1人だから、不幸せではない。1人でも、同じ趣味を持てば、同類は集まる。

大切なのは、多い少ないに関わらず、仲間がいることだ。

そして、その仲間たちと、次は、どんなことをして楽しもう、または、妻とは、こんな距離感で、接して行こうとか、周りのみんなが、何か、愉しい時間を過ごせる何かがあると、人生は、想ったほど、悪くない。

我が身にも、不測の事態は、起こる、これを認識して生活すると、生活の質が変わり、しみじみと、「生」を感じる。

毎日を大切に、生活できる。

食べ物も、おいしく感じるし、ふとした、人の優しさが、心に沁みたりする。

人って、そういう事が、いつまでも、続けばいいなと思っているし、 でも、やっぱりそれが、現実かと、躓いたりしながら、今この時を、しみじみと感じならがら、毎日を、生きているんだろう。

それが、人なんだろう。

1つ、最近、悟った事がある、悟ったと言うと、大袈裟に聞こえるが、何度か、同じような結果が出たのだ。

それは、些細なことで、よく覚えていないのだが、自分が知識としてよく知らなかった事だった。

しかし、それをどうにかして、克服しと、成就させたい。

諦めなかった、とにかく、諦めないで、色々調べて、繰り返し、繰り返し、で、ようやく、ある日、それが、できるようになってのである。

そう、大切なのは、 諦めないと言う、気持ちだ。

諦めなければ、それは、必ず、 見つかる。

だから、諦めないこと。

とかく、スマホがや日常になりつつあるこの頃だが、スマホ操作で諦めたり、意味を調べてみたり、何かと連携したりと、諦めたくなる事も多いだろう。

そういう些細な事も、絶対に諦めない事だ。

絶対に諦めない限り、必ず、道は開けるのだから。

モバイルバージョンを終了